どういった人間に対して書かれているか
このブログは断言口調であえて書かれているが、それがどんな人間に対して書かれているかが欠落していた。
例えばだが、原因不明の高熱が出てどんな医者にかかっても治らなかったとする、しかもそれが1年続き、高額な医療費を請求され、家族にも見捨てられ、しまいにはフラフラになって階段から落ちて、骨折してしまい入院するハメになった人がいたとする。
その人は普通の生活を送りたいと誰よりも願っていたが、その高熱も3年続き、結局難病指定され障害者と認定されることになったとする。
そういった人が渋々受けた生活保護に納得できるとは思えないだろうと思い、生活保護は堂々と受ければいいと書いた。
他の例を出そう、10年間親に暴力をふるわれ、挙句のはてに捨てられホームレスになった子供。
あるいわ、3人の子供がいたが、旦那が薬物中毒になり、殺されそうになり、逃げることになったが、逃げる先の親戚が誰も助けてくれなった、母子家庭の奥さん。
あるいわ、ひどい交通事故にあい、内臓と骨がやられ、機械まみれの状態で障害者となり、それでもなお一人で生きていかなければない人。
誰でも堂々と生活保護を受ければいいと書いたわけではない。
恐らく完全に社会をなめ切った人間も受け入れられる考えなのかもしれないが、今並べたような苦境にある一人で生きていかなければならない人にも人権を与える内容になっている。
それが反対の意見を呼ぶ要因なのかもしれない。
感謝の気持ちを持てという人格否定
最近知り合った友人に今までの人生の経験を聴いた。
彼は結婚していたが離婚して4人の子供を育てているとき、
「こんなに辛い状況にしたのは誰だ」と、元嫁に深い復讐心をもっていた。
その復讐心は元嫁にだけでなく社会にも向かって、
こんな社会滅べばいいと、無差別に全員を殺して、自分も死にたいと思ったという。
彼は心療内科には行ってないが、もしそれを医者に素直に話したなら、何等かの病名をつけられて精神病院にいれられていただろう。
しかし幸いなことに彼は友人に恵まれ、自分の苦しみをわかってくれる人たちや手助けしてくれる人が現れて、徐々にいろんなことに感謝するようになった。
苦悩の渦中にいる人に他人に感謝しろというアドバイスも間違っているのがこのことからわかる。
感謝するのはいいことかもしれないが、もし良いアドバイスが存在するなら、「感謝したほうが幸せだよ、できるように手助けするよ」というのが正解だろう。
ただ単に「感謝しろよ」というのは自分のほうが人格者であると思い込むための他者否定に違いない。
このように他人に感謝できないほど精神が狂った状態が人間は存在する。
それを救うアドバイスは「感謝しろ」は最適ではない。
本当にその人を思うときそどういったアドバイスが最適かは、細かく人その心を分析しないといけない。
働けない人に働けというアドバイスは間違っている
世の中には働けない人種が存在すると思っている。
いわゆる社会不適合者といって社会では軽蔑されるが、
それを悪いことだとはどうしても思えない。
社会不適合者が成功する例は芸術方面に多い。
太宰治やカートコバーンがその一例だ。
でもその社会不適合者が成功しない例もいっぱいある。
かといってその人たちに人権が存在しないのか言えばそうではないと思う。
俺はパソコンが得意だから、作業所の理事長の手伝いを休み休みしているが、
もし立ち仕事だったら到底できない。
座って頭を使いすぎる仕事もできない。
今たまたま運よく仕事に恵まれてはいるけど、
それがなかったら社会的に何もしてないことになる。
例えばこれが一生自分に合った仕事に恵まれないパターンだってある。
そういう合った仕事がなかなか見つからない社会不適合者というレッテルが張られている人たちが人権がないかのように扱われるのが本当にわからない。
なぜアドバイスする人はただただ働けというのだろうか?
普通本当に心配しているなら、その人の長所を探してあげて手伝ってあげるのが本当のアドバイスだと思う。子を思う親ならそういうアドバイスをするだろう。
でも他人がアドバイスをするときはただただ働くのが正義だから働けっていう人が多い。
それは傲慢な価値観の押し付けにすぎない。
自分の良心が痛むことは他人にも押し付ける傾向が人にはある。
働かなければ悪であるという一種の強迫観念が、「それをしなきゃ!」って思っている人たちは働かない人を責める。
嫌ならしなければいいのにと思う。
恐らく責める人はそれが強迫観念であるということに気づいてない。
俺はどんなけ働いていても働かない人を責めることはない。
なぜなら働けない苦痛を誰よりも知っているからだ。
もし一生働かないって決意をしている人がいれば尊敬さえする。
宝くじで億万長者になればそういう人も多いんじゃないだろうか?
特に働かねばならぬと強迫観念で金のためだけに働いてる人はそうするだろう。
逆に働くことが生きがいになる人、合った仕事に恵まれた人は宝くじが当たっても働くんだろう。
働けない人は「自分は一生働かない!」
それくらいの開き直りがある人のほうが、強迫観念に苛まれて働いて過労で倒れる人よりよっぽど利口だ。
よくわかってる。
本当の苦労を知らない人は他人に厳しい
統失なのに統失をバカにする人達。
ある意味滑稽だが今目の当たりにしてしまった。
ある一人のコメントでは親の介護の上で成り立っている生活なのに、介護の無い弱者をバカにしてくる。
心の無い人にしか思えない。
精神病院に入るかねも無い人が生活保護をもらってそこに甘えることは間違っているのだろうか?
普通どこまでも追い詰められた人は甘えるのが普通なんじゃないだろうか?
車にはねられた任意保険に入っていなかった貧乏人には何も感じないのだろうか?
その傲慢な心がある意味温室育ちすぎる甘えだと俺は考える。
何も現実を理解していない。
本当の苦悩を理解していない。
病人は堂々と生活保護を貰えばいい
自分にあった仕事が見つかるまで働く必要性なんてない。
日本ではホームレスになることもないからだ。
ちゃんと安全が保障されている。
そのためのセーフティーネットだ。
ただ堂々とそれを貰えない人が多くいることにひどく憤りを感じる。
特に働けない人はそれをもらう権利があり法律がある。
不当にもらっては捕まってしまうが、
病人がもらうことに何の抵抗があるのだろう。
自分がもっとひどい病に苦しみもらうハメになり一生を終えることを想定にはいれていないのだろうか?例えば目を怪我して盲目になったりしたり。
そういう人たちも大勢いる。
人はいつそういうハメにあうかわからない、だからこそのセーフティーネットであり、生活保護だ。
いつ車いす生活になるかもわからない。
そしてそういった人たちにも尊厳と最低限の生活を与えてあげることは当たり前のことだと思う。
目の見えなくなった人は、自分にあった楽しい仕事が見つかるまで探せばいいし、車椅子生活の人も同様に無理して働く必要性は皆無だ。
働かないでいることの幸福
とある海外でベーシックインカムが導入された。
ベーシックインカムとはあらゆる人に問答無用でお金を月々9万くらいだが、支給する制度だ。
その中で病気で働けなかった人が「働くようにせまってくる役所からの電話にびびらくてすむようになった」といっている。
これは俺は素晴らしい制度だと思う。
働きたい人は(9万より稼ぎたい人)働けばいいし、働けない人は堂々とお金をもらってその中で生活ができる。
このブログのコメントに来るような”働けない病気の人はクズ”という人も減るだろう。
そしてそのような他人からのバッシングに怯える必要もないだろう。
バッシングをする人は心が貧しい人だと思う。
特に低所得者に多い気がする。
ワーキングプアーがある意味一番たちが悪い。
昔の士農工商の制度と同じで、自分たちが偉いと思いこみたいのだ。
でも全く偉くのないし、心の貧しい人だということに気づいてほしい。
なぜ俺は働かない人を貶さないのか
今は曲がりなりにもIT系の仕事をしているが、
もしITの知識なく今の病気の状態だったらと考える。
もしくわ、何の仕事のつてもなく、行った職場も毎回合わない状況の人が大多数いるからだ。
だから貶すどころか、苦しんで生きている人には尊敬の念さえある。
機械まみれで寝たきりで生きている人がいる。
この人は生きてはいけないのだろうか?
俺はそうは思えない。
苦悩の中生きている人をそんなふうには思えない、むしろ甘やかしてしまうだろう。
車に轢かれて骨折した人に働けっていう人がいるだろうか?
それと同じだ。
激痛の中、苦悩の中生きている人に尊厳を与えられない人、けなす人は俺はどうも価値観が合わない。