地獄の哲学

無謀な挑戦

精神病は他人が作ったあらゆるモデルや道徳が引き起こす

統合失調症であることは別に悪いことでない。

なぜそれを悪いと思いこんでしまうのだろう?

それは働かなければいけないとか、人を信じないといけないとか、

お金は自分で稼がなければいけないといった一種の強迫的な道徳がある。

しかもそれらは美徳とされ、愛されている。

はたしてそれらの道徳は本当に正しいのだろうか?

人は本気で死ぬ気でそれを悩んだことはあるのだろうか?

俺は疑問に思う。

働かなければいけないという理由の一つに、人に頼っていきるのはよくないという、日本人的道徳の美徳が隠れているのではないだろうか?

困った時に人に頼るのは当然と日本人は教えられていない。

少なくとも日本では、人に頼らずどんな時も自己解決することを求められる。

しかし、交通事故にあい骨折した人が助けを求めることは当然ではないだろうか。

そこまで追い詰められない限り、日本人的道徳は他人に頼ることを許されない。

むしろどんな危機的精神的病に苦しんでいても、他人に与えることを強いられる。

それが精神衛生上とても悪いものだと気づく人はいないのだろうか。

だから病気になって苦しみ自殺する人も多発するのだろう。

なぜ人に頼ることは美徳じゃないのだろうか?

宗教にハマっている人は神に頼ることを、資本主義にはまる人はお金に頼ることを忘れてはいない。

どちらも一種の他人の創作物であり、頼るべき価値のあるものと皆信じている。

いや、信じていると思い込まされている。洗脳であり、強迫観念である。

幼いころ(正確に言えば他者の意見に左右されないでいるころ)

はそうではなかった。苦しいことがあったら泣き、楽しいことがあったら笑うという当然のことが自然にできたのだ。

それを抑えつける道徳がどうも自分には正しいとは思えない。

本当の美徳は子供のころ輝いていた精神性を保つことにあるのではないだろうか?

精神病は他者が作った道徳に振り回された結果であるように思えてくる。

どうも腑に落ちない。

道徳を守った結果自分がどうなったかを見ればわかる。

苦悩は増すばかりか、病苦はひどくなっている。

復讐心は増し、疑いの目も一層ひどくなっている。

誰がこんな自分にしたか。

それは他人の理想であり、他者の創造したあらゆるモデルである。

それらに従わなけらばいけないかのように仕向けたあらゆる他人である。

他人は一人の人間にあらゆる理想を押し付けてくる。

そんなもの一切ないのが、幼い赤ちゃんだ。

泣きたい時に泣き、苦しい時に助けをすぐに求め、好奇心の赴くまままに遊ぶ。

それらを普通の人ならかわいい目で見て、かわいがる。

むしろそんな生き方を羨ましいとも思う。

とはいえ自分はそんな生き方はできないのではいかとの推測はある。

ある意味、洗脳や強迫観念の一種は人にとっての人格にさえなっている。

他者によって作らされすぎた人間は病んでしまう。

時には死の淵までおいやられてしまうこともある。

自分の意見をしっかり持つことだ。

そうじゃない限り精神病者が減ることは一切ないだろう。

疑いの目を持ち発信すること。

精神病は他者の様々な抑圧によって引き起こされるものだ。

違ったと思った意見にはハッキリとノーということ。

そしてノーと言えるだけの知識を持つことが必要だ。