地獄の哲学

無謀な挑戦

病人は堂々と生活保護を貰えばいい

自分にあった仕事が見つかるまで働く必要性なんてない。

日本ではホームレスになることもないからだ。

ちゃんと安全が保障されている。

そのためのセーフティーネットだ。

ただ堂々とそれを貰えない人が多くいることにひどく憤りを感じる。

特に働けない人はそれをもらう権利があり法律がある。

不当にもらっては捕まってしまうが、

病人がもらうことに何の抵抗があるのだろう。

自分がもっとひどい病に苦しみもらうハメになり一生を終えることを想定にはいれていないのだろうか?例えば目を怪我して盲目になったりしたり。

そういう人たちも大勢いる。

人はいつそういうハメにあうかわからない、だからこそのセーフティーネットであり、生活保護だ。

いつ車いす生活になるかもわからない。

そしてそういった人たちにも尊厳と最低限の生活を与えてあげることは当たり前のことだと思う。

目の見えなくなった人は、自分にあった楽しい仕事が見つかるまで探せばいいし、車椅子生活の人も同様に無理して働く必要性は皆無だ。

 

働かないでいることの幸福

とある海外でベーシックインカムが導入された。

ベーシックインカムとはあらゆる人に問答無用でお金を月々9万くらいだが、支給する制度だ。

その中で病気で働けなかった人が「働くようにせまってくる役所からの電話にびびらくてすむようになった」といっている。

これは俺は素晴らしい制度だと思う。

働きたい人は(9万より稼ぎたい人)働けばいいし、働けない人は堂々とお金をもらってその中で生活ができる。

このブログのコメントに来るような”働けない病気の人はクズ”という人も減るだろう。

そしてそのような他人からのバッシングに怯える必要もないだろう。

バッシングをする人は心が貧しい人だと思う。

特に低所得者に多い気がする。

ワーキングプアーがある意味一番たちが悪い。

昔の士農工商の制度と同じで、自分たちが偉いと思いこみたいのだ。

でも全く偉くのないし、心の貧しい人だということに気づいてほしい。

大金持ちはー例えば孫正義とかビルゲイツ、その他多くの金持ちはいちいちそんなことをバッシングする暇もないし、興味もない。

なぜ俺は働かない人を貶さないのか

今は曲がりなりにもIT系の仕事をしているが、

もしITの知識なく今の病気の状態だったらと考える。

もしくわ、何の仕事のつてもなく、行った職場も毎回合わない状況の人が大多数いるからだ。

だから貶すどころか、苦しんで生きている人には尊敬の念さえある。

機械まみれで寝たきりで生きている人がいる。

この人は生きてはいけないのだろうか?

俺はそうは思えない。

苦悩の中生きている人をそんなふうには思えない、むしろ甘やかしてしまうだろう。

車に轢かれて骨折した人に働けっていう人がいるだろうか?

それと同じだ。

激痛の中、苦悩の中生きている人に尊厳を与えられない人、けなす人は俺はどうも価値観が合わない。

 

 

人と比べない生き方は無理じゃないか?

隣の芝生は青いという言葉があるが、テレビは、こっちの芝生のほうが青いですよと煽ってくる。
しかしそれがマーケティングであり、金稼ぎに繋がるし、一般人のモチベーションにも繋がる。
あらゆる自己啓発書は人と比べるなといいながら、マーケットは人と比べることを強要してくる。
無意識のうちにそれらに洗脳され、現代人はものと食に困らないのに、不毛な幸福合戦の中で不幸せを感じている。
病む人が多くなったのは、メディアのせいで幸福合戦を強いられるせいかもしれない。
完璧主義の日本人にはそれが強迫的に感じるのかもしれない。

時には犯罪者になるのが人間

人間はコロコロ価値観が変わる。

ある時には犯罪者になり、ある時には道徳人になるのが人間だ。

その意識はコロコロ変わる、それはまるで壊れた歯車のように。

殺意さえ湧く時もあれば仏のように優しい時もある。

それが人間だ。

しかし常識は人格の固定化を望む。

本当はこうでなければならぬという法律やルールや常識による抑圧が、実はあらゆる犯罪を引き起こしている。

こうでなければという抑圧からの解放が犯罪だと言ってもいい。

人間があらゆるルールから脱出する術が犯罪なのだ。

だから時にはその抑圧からの解放は、ロックミュージックなどの芸術の分野で尊重される。

乱暴は時に正義となり美徳となることを歴代のロックミュージックは許している。

発散であり解放的活動、そして本当の人間に戻るのがロックミュージックだ。

でも俺は犯罪を好きなわけではない。

なぜなら犯罪がこの世を支配すれば、自分が迷惑をこうむるからだ。

それに自分が犯罪をすれば独房にいれられてしまう。

ロックをライブで聴きたくないのは、モッシュ中に怪我をしたくないからだ。

自分は痛みを受けたくないという保守的で卑しい考えだけが、犯罪を否定する理由だ。

本当はマキシマムザホルモンのように半狂乱になり暴れる思考を望んでいる。

美しい理性と激しい狂気が人間の中には共存している。

 

 

精神病は他人が作ったあらゆるモデルや道徳が引き起こす

統合失調症であることは別に悪いことでない。

なぜそれを悪いと思いこんでしまうのだろう?

それは働かなければいけないとか、人を信じないといけないとか、

お金は自分で稼がなければいけないといった一種の強迫的な道徳がある。

しかもそれらは美徳とされ、愛されている。

はたしてそれらの道徳は本当に正しいのだろうか?

人は本気で死ぬ気でそれを悩んだことはあるのだろうか?

俺は疑問に思う。

働かなければいけないという理由の一つに、人に頼っていきるのはよくないという、日本人的道徳の美徳が隠れているのではないだろうか?

困った時に人に頼るのは当然と日本人は教えられていない。

少なくとも日本では、人に頼らずどんな時も自己解決することを求められる。

しかし、交通事故にあい骨折した人が助けを求めることは当然ではないだろうか。

そこまで追い詰められない限り、日本人的道徳は他人に頼ることを許されない。

むしろどんな危機的精神的病に苦しんでいても、他人に与えることを強いられる。

それが精神衛生上とても悪いものだと気づく人はいないのだろうか。

だから病気になって苦しみ自殺する人も多発するのだろう。

なぜ人に頼ることは美徳じゃないのだろうか?

宗教にハマっている人は神に頼ることを、資本主義にはまる人はお金に頼ることを忘れてはいない。

どちらも一種の他人の創作物であり、頼るべき価値のあるものと皆信じている。

いや、信じていると思い込まされている。洗脳であり、強迫観念である。

幼いころ(正確に言えば他者の意見に左右されないでいるころ)

はそうではなかった。苦しいことがあったら泣き、楽しいことがあったら笑うという当然のことが自然にできたのだ。

それを抑えつける道徳がどうも自分には正しいとは思えない。

本当の美徳は子供のころ輝いていた精神性を保つことにあるのではないだろうか?

精神病は他者が作った道徳に振り回された結果であるように思えてくる。

どうも腑に落ちない。

道徳を守った結果自分がどうなったかを見ればわかる。

苦悩は増すばかりか、病苦はひどくなっている。

復讐心は増し、疑いの目も一層ひどくなっている。

誰がこんな自分にしたか。

それは他人の理想であり、他者の創造したあらゆるモデルである。

それらに従わなけらばいけないかのように仕向けたあらゆる他人である。

他人は一人の人間にあらゆる理想を押し付けてくる。

そんなもの一切ないのが、幼い赤ちゃんだ。

泣きたい時に泣き、苦しい時に助けをすぐに求め、好奇心の赴くまままに遊ぶ。

それらを普通の人ならかわいい目で見て、かわいがる。

むしろそんな生き方を羨ましいとも思う。

とはいえ自分はそんな生き方はできないのではいかとの推測はある。

ある意味、洗脳や強迫観念の一種は人にとっての人格にさえなっている。

他者によって作らされすぎた人間は病んでしまう。

時には死の淵までおいやられてしまうこともある。

自分の意見をしっかり持つことだ。

そうじゃない限り精神病者が減ることは一切ないだろう。

疑いの目を持ち発信すること。

精神病は他者の様々な抑圧によって引き起こされるものだ。

違ったと思った意見にはハッキリとノーということ。

そしてノーと言えるだけの知識を持つことが必要だ。

 

 

お母さんに向けての歌詞みたいな手紙

『mother』
情けなくて、何もできない俺だけど、
そうやって悩んでるのもあなたのためだからかもしれない。
偉大なmother
いつも考えない日はないよ。
ありがとうなんて簡単には言えない。
でもいつも思ってる、偉大なmother
家族の事を一番に考えてること知ってる。
だから俺は辛くなるんだ。
自分の事で精一杯な自分に嫌気がさすんだ。
感謝してもしきれないくらいでいるよ。
偉大なmother
”感謝してもしきれない”なんて、使い古された言葉は使いたくないな。
だってそれ以上だから。
言葉が浮かばないくらい尊敬してて感謝してる。
あなた以上の存在は思い浮かばないね。
俺は一生勝てないだろうね。
勝てる気もしないよ。
あなたに会えてよかった。
ありがとう、そしてこれからもよろしく偉大なmother