地獄の哲学

無謀な挑戦

人と比べない生き方は無理じゃないか?

隣の芝生は青いという言葉があるが、テレビは、こっちの芝生のほうが青いですよと煽ってくる。
しかしそれがマーケティングであり、金稼ぎに繋がるし、一般人のモチベーションにも繋がる。
あらゆる自己啓発書は人と比べるなといいながら、マーケットは人と比べることを強要してくる。
無意識のうちにそれらに洗脳され、現代人はものと食に困らないのに、不毛な幸福合戦の中で不幸せを感じている。
病む人が多くなったのは、メディアのせいで幸福合戦を強いられるせいかもしれない。
完璧主義の日本人にはそれが強迫的に感じるのかもしれない。

時には犯罪者になるのが人間

人間はコロコロ価値観が変わる。

ある時には犯罪者になり、ある時には道徳人になるのが人間だ。

その意識はコロコロ変わる、それはまるで壊れた歯車のように。

殺意さえ湧く時もあれば仏のように優しい時もある。

それが人間だ。

しかし常識は人格の固定化を望む。

本当はこうでなければならぬという法律やルールや常識による抑圧が、実はあらゆる犯罪を引き起こしている。

こうでなければという抑圧からの解放が犯罪だと言ってもいい。

人間があらゆるルールから脱出する術が犯罪なのだ。

だから時にはその抑圧からの解放は、ロックミュージックなどの芸術の分野で尊重される。

乱暴は時に正義となり美徳となることを歴代のロックミュージックは許している。

発散であり解放的活動、そして本当の人間に戻るのがロックミュージックだ。

でも俺は犯罪を好きなわけではない。

なぜなら犯罪がこの世を支配すれば、自分が迷惑をこうむるからだ。

それに自分が犯罪をすれば独房にいれられてしまう。

ロックをライブで聴きたくないのは、モッシュ中に怪我をしたくないからだ。

自分は痛みを受けたくないという保守的で卑しい考えだけが、犯罪を否定する理由だ。

本当はマキシマムザホルモンのように半狂乱になり暴れる思考を望んでいる。

美しい理性と激しい狂気が人間の中には共存している。

 

 

精神病は他人が作ったあらゆるモデルや道徳が引き起こす

統合失調症であることは別に悪いことでない。

なぜそれを悪いと思いこんでしまうのだろう?

それは働かなければいけないとか、人を信じないといけないとか、

お金は自分で稼がなければいけないといった一種の強迫的な道徳がある。

しかもそれらは美徳とされ、愛されている。

はたしてそれらの道徳は本当に正しいのだろうか?

人は本気で死ぬ気でそれを悩んだことはあるのだろうか?

俺は疑問に思う。

働かなければいけないという理由の一つに、人に頼っていきるのはよくないという、日本人的道徳の美徳が隠れているのではないだろうか?

困った時に人に頼るのは当然と日本人は教えられていない。

少なくとも日本では、人に頼らずどんな時も自己解決することを求められる。

しかし、交通事故にあい骨折した人が助けを求めることは当然ではないだろうか。

そこまで追い詰められない限り、日本人的道徳は他人に頼ることを許されない。

むしろどんな危機的精神的病に苦しんでいても、他人に与えることを強いられる。

それが精神衛生上とても悪いものだと気づく人はいないのだろうか。

だから病気になって苦しみ自殺する人も多発するのだろう。

なぜ人に頼ることは美徳じゃないのだろうか?

宗教にハマっている人は神に頼ることを、資本主義にはまる人はお金に頼ることを忘れてはいない。

どちらも一種の他人の創作物であり、頼るべき価値のあるものと皆信じている。

いや、信じていると思い込まされている。洗脳であり、強迫観念である。

幼いころ(正確に言えば他者の意見に左右されないでいるころ)

はそうではなかった。苦しいことがあったら泣き、楽しいことがあったら笑うという当然のことが自然にできたのだ。

それを抑えつける道徳がどうも自分には正しいとは思えない。

本当の美徳は子供のころ輝いていた精神性を保つことにあるのではないだろうか?

精神病は他者が作った道徳に振り回された結果であるように思えてくる。

どうも腑に落ちない。

道徳を守った結果自分がどうなったかを見ればわかる。

苦悩は増すばかりか、病苦はひどくなっている。

復讐心は増し、疑いの目も一層ひどくなっている。

誰がこんな自分にしたか。

それは他人の理想であり、他者の創造したあらゆるモデルである。

それらに従わなけらばいけないかのように仕向けたあらゆる他人である。

他人は一人の人間にあらゆる理想を押し付けてくる。

そんなもの一切ないのが、幼い赤ちゃんだ。

泣きたい時に泣き、苦しい時に助けをすぐに求め、好奇心の赴くまままに遊ぶ。

それらを普通の人ならかわいい目で見て、かわいがる。

むしろそんな生き方を羨ましいとも思う。

とはいえ自分はそんな生き方はできないのではいかとの推測はある。

ある意味、洗脳や強迫観念の一種は人にとっての人格にさえなっている。

他者によって作らされすぎた人間は病んでしまう。

時には死の淵までおいやられてしまうこともある。

自分の意見をしっかり持つことだ。

そうじゃない限り精神病者が減ることは一切ないだろう。

疑いの目を持ち発信すること。

精神病は他者の様々な抑圧によって引き起こされるものだ。

違ったと思った意見にはハッキリとノーということ。

そしてノーと言えるだけの知識を持つことが必要だ。

 

 

お母さんに向けての歌詞みたいな手紙

『mother』
情けなくて、何もできない俺だけど、
そうやって悩んでるのもあなたのためだからかもしれない。
偉大なmother
いつも考えない日はないよ。
ありがとうなんて簡単には言えない。
でもいつも思ってる、偉大なmother
家族の事を一番に考えてること知ってる。
だから俺は辛くなるんだ。
自分の事で精一杯な自分に嫌気がさすんだ。
感謝してもしきれないくらいでいるよ。
偉大なmother
”感謝してもしきれない”なんて、使い古された言葉は使いたくないな。
だってそれ以上だから。
言葉が浮かばないくらい尊敬してて感謝してる。
あなた以上の存在は思い浮かばないね。
俺は一生勝てないだろうね。
勝てる気もしないよ。
あなたに会えてよかった。
ありがとう、そしてこれからもよろしく偉大なmother

犯罪を犯さずに寿命を全うすることが本当の勝利

数々の偉人が精神的葛藤で自殺しているが、

足が無くなっても、どんな悲劇的な事故に会っても、

精神的葛藤で発狂しそうになっても、過去にどんなトラウマがあっても、

それでもなお、犯罪を犯さずに寿命を全うすることが本当の正義だ。

だから俺は、体中が機械まみれになろうとも、

親族が全員いなくなってどんなけ孤独になっても、

車いす生活になろうとも、生涯、障害を抱えた生活になろうとも、

グループホーム生活になろうとも、痴呆になって、新たな精神病が発症して、毎日発狂しそうな日々を送ろうとも、閉鎖病棟で生ききらないといけない状態になろうとも、犯罪を犯さずに生ききる。

それができないで自殺していく人が過去には多かった。

でも俺はそれを乗り越えて寿命を必ず全うする。

この覚悟が生きる上で最大の試練ではないか?

そして一番辛い生き方であり、一番乗り越えないといけない壁ではないか?

ある意味最悪の想定をした人生は強いかもしれない。

どんなダサイ生き方でもいい。ニートでもゲーム廃人でも浮浪者でもなんでもいい。

どんな不細工な生き方でもいい。とにかく自害せずに寿命を全うすること。

これが俺の覚悟と信念だ。

 

今日の反省

人間は測れるものと思っていたが、

測れないものであると悟った。

測れる者と思って、それを測ろうとするところに自分の傲慢さがあった。

人間はもっと奇跡的な存在で個人が測れる者ではない。

頭の良い集団が集まっても測れない。

不思議極まり無いものである。

 

 

永遠に葛藤する人生

俺は病気なんだなと今日改めて実感した。

毎日窮屈な日々の中で何の楽しみもない。

妄想とまとまらない思考。

それでも生きてる。

仕事はまだまだできないけど、

一歩ずつできることをしていこうと思う。

あと病気のことを誰にでもカミングアウトできるようになりたい。

いつでも偽って病気じゃない元気なフリをしてしまう。

だから友達と遊んだ後はいつも自殺願望に襲われる。

健常者に上手く馴染みたいという完璧主義的な欲求と、

自分は全く馴染めないという葛藤が常に心の中に混在している。

それでもなお生きるために何等かのことをしていないといけない。

そうじゃないと時間がつぶれないからだ。

例え不毛でも生きていかなければならない。